骨髄移植によって救われた命。
白血病経験者が映画を通じて伝えたい想い。
あなたは、白血病という病気をご存じでしょうか。
白血病は「血液のがん」といわれる病気で、造血細胞(血液を製造する工場とでもいうべき細胞)の異常から引き起こされるものです。著名人の方でもたくさんの方が白血病と診断されたことを告白し、中には亡くなった方も少なくありません。
白血病の治療の一つとして「骨髄移植」があります。
骨髄移植は造血細胞を他の人の健康なものと置き換える治療方法です。「移植」ですので、その造血細胞を提供する「骨髄ドナー」の協力が必要となります。
私、樋口大悟は25歳の時、突如「急性骨髄性白血病」と診断されました。俳優を目指し始めた矢先の出来事でした。抗がん剤によって1度は治癒したかと思われましたが、1年後に再発。その後の長い闘病生活のなかで死を覚悟する時期も経験しましたが、幸いにも30歳の時にドナーが見つかり、骨髄移植により命を救われた一人です。
一つでも多くの命が助かってほしい。
白血病を経験した本人が企画・原案・主演する映画を通じて。
その後、僕は骨髄移植で命を救われた経験を活かし、骨髄バンク支援活動や命の大切さを伝える講演などを行ってきました。その中で出会った協力者の方々、そしてクラウドファンディングによる支援者の方々のおかげで、1つの映画を制作することができました。それが「骨髄移植と命」をテーマにした映画「みんな生きている 〜二つ目の誕生日〜」です。
白血病の当事者である僕、樋口大悟が主演として演じることで、今現在苦しんでいる方に「こんなに元気になれるんだ」と希望を持って欲しい。これが、この映画作りの根底にある想いです。
そしてもう1つ、この映画を通じて伝えたい想いは「誰かの善意で助かる命がある」ということです。僕のように骨髄移植だけが唯一の生きる方法だと告知された人でも、骨髄液をくれるドナーさんが居なければ、生きる希望を持って移植手術に臨むことすら叶いません。
しかし、骨髄バンクに興味があっても、バンク登録に踏み切れない人もいます。身体的な理由や登録条件などにより登録できない人もいます。登録してドナーに選ばれても、何かしらの理由で辞退する人もいます。家族や周囲の人からの反対で骨髄液の提供を諦める人もいます。
この映画を通じて骨髄移植の現実を知るとともに、ドナー登録をしなくても、骨髄液の提供をしなくても、何かしらの方法で、活動の一部に参加する事が出来る。それを知ってもらえる、それを広めてもらえる。その一端になれたらと思っています。
2019年4月下北沢ロフト・骨髄バンクって何?
ライブ&トークショウVol.1
僕のドナーになってくれた人にも届けたい。
名前も顔も知らないドナーさんへ届けたい「ありがとう」の気持ち。
僕は再発後、骨髄移植の手術まで3年余かかりました。
身内の中に骨髄の型が合う者が居なかった僕は、骨髄バンク登録者に頼るしかありませんでした。登録者の中から骨髄の型が合う人を見つけ、その登録者に同意を得て、手術を行うまで、3年を要したのです。その3年間は死への恐怖に怯える毎日でした。
しかし、幸いにも僕の白血病は進行の遅いタイプでした。さらに幸いなことに、その3年の間に骨髄バンク登録者が22万人から32万人に増えていました。登録者が増えた背景には、本田美奈子さんの『白血病に負けない。負けさせない。』広報活動がありました。僕のドナーさんもその内のお一人かもしれません。
3年を過ごしたある日、突如病状が悪化。「移植するなら今しかない」というタイミングでドナーが見つかった時は、ただただホッとしました。しかし当時の骨髄移植手術はまだ、半数弱の人が命を落とす治療法でした。もしかしたら自分が2ヶ月後に消えているかもしれない...。恐怖と希望が行ったり来たりしていました。
意外と知られていませんが、骨髄移植を受けた人は、ドナーとなった人がどこの誰なのかを知ることはできません。それはドナー側も同様で、自身の骨髄が誰に渡ったのか、誰の命を救ったのか、知ることはないのです。
移植日まで、ひたすらに顔も名前も知らないドナーさんのイメージをし続けていました。関西在住の同年代の女性とだけ聞かされていたので、西の空ばかり見ながら。そうすれば、きっとドナーさんの骨髄液も僕の中に根付いてくれ、血を作ってくれるはずだと。
優しい人なんだろうなぁ、家族や子供はいるのでしょうか、今どこで何をしているのでしょうか。風邪はひいていませんか。そんなことを当時も、今も、思っています。このプロジェクトを見ているかはわかりませんが「あなた」が居なければ、僕の命は消えていました。心からの「ありがとう」を映画を通じて伝えたい、そう願っています。
友人と家族に支えられた闘病生活。前を向いて笑って過ごそうと思いながらも心の底から笑えたことはなかった気がします。
白血病をテーマにした映画やドラマは多く存在します。しかし、骨髄を提供してくれるドナーさんに焦点を当てた話はありません。顔も名前もわからない見知らぬ誰かに、僕は助けられた。この事実もこの映画で伝えたいと思っています。
「骨髄移植」という治療方法は無名の人たちの善意に支えられている。この映画を作ると決めた時、このテーマの持つ意味、そして骨髄バンクの活動に共感してくれる人達と共に作りたい。そう思いました。
まだ終わっていない、僕の闘病。
一つでも多くの命や希望につながって欲しい。
白血病と診断されてからいつの間にか10数年が経っていました。再発、骨髄移植をしてからもあっと言う間に過ぎたように感じます。
映画が完成した今思うこと。それは、この映画を作る事で改めて、より深く、この病気と骨髄移植と命に向き合う機会になったということです。この映画を作って、一つでも多くの命や希望に繋がるよう、ドナー経験者の方や沢山の方に観て貰うまでは、僕の闘病は終わっていないんだと気付きました。
20代半ばから30歳の間、移植まで散々悩んだ時期がありました。働き盛りの輝いている同年代とただ病室にいる自分。移植後も、1〜2年は再発率も高く、日常生活にも沢山の制限があります。移植サバイバーにとって、社会復帰もまた大変な一歩です。
幸いにも僕は骨髄移植のおかげで命が繋がり、3年くらい経つとかなり元気になりました。徐々に良くなる中で、患者会などに足を運んだり、イベントで話す機会が増えました。苦しんでいる方やそのご家族の話を聞く機会も増え、同時に亡くなる方も沢山みてきました。
月日を重ねる毎に、もっと沢山の人に骨髄移植、骨髄バンク、助かる命がある事を知って欲しいと思うようになりました。僕自身が移植経験者である。僕自身が俳優である。映画を作って沢山の方々にこの想いと現実を届けたいという気持ちが募っていく事になります。そしてドナーの方々にも感謝の想いを伝えたい。そう思うと、居ても立っても居られなくなりました。
中央:樋口大悟/右:両沢和幸監督
2020年夏、短編映画「10年目のロックスター」の撮影風景
両沢和幸監督との出会い。
映画制作に至るまでの経緯。
2011年、両沢監督にオーディションで出会いました。その時、オーディションには落ちてしまい仕事をご一緒する事はありませんでしたが、その後、僕が監督のオリジナルソングを好きになり、監督の歌を聴きにライブに通うようになりました。出逢って3年程経った2014年頃、監督に病気と骨髄移植の事を話すようになったのを覚えています。
「映画を作りたいと思っている」
この時、既に映画の構想は他のチームと動きはじめていたので、監督には脚本が出来たらアドバイスしてくださいとお願いしていました。
2017年、両沢監督の提案で『骨髄バンクって何?ライブ&トークショウ』を始めました。この活動の中で『僕のヒーロー』という曲が生まれました。僕が言葉にできないドナーさんへの想いを監督が作詞し、闘病中も支えてくれた心友でありアーティストでもある鈴木周哉が作曲、3人で歌う事になりました。この『僕のヒーロー』が、今回の映画の主題歌です。
そんな活動をする中、当初動いていたチームとの映画企画が流れてしまいました。それを聞いた両沢監督は「じゃぁ、俺がやろうか。」と一言。一緒にやる事になり、脚本を書き始めてくれました。2018年、この映画のスタート地点です。
多くの協力者のおかげで完成した映画。
監督・糸魚川の皆さん・支援者の皆さん・制作の皆さんにも伝えたい「ありがとう」。
最初は、僕と両沢監督の2人での二人三脚。
脚本を持って色々なところを周り、協力者を仰ぎました。資金集めをする為にクラウドファンディングを立ち上げたのも、この頃です。ドナー側と患者側の両面を描く為に、ドナー側のロケ地をどうするかという話になった時、両沢監督から「ドナー側の撮影地、糸魚川にしたら?」という提案が。新潟県糸魚川市…僕の故郷です。
糸魚川市大規模火災。
2016年12月22日昼前、糸魚川市で発生した火災は、翌日の夕方の鎮火まで約30時間続きました。焼損範囲は約4万平方メートル。幸いにも死者は出ませんでしたが、多くの住宅や会社、そして歴史的建造物や文化施設が消失してしまいました。2018年のこの頃も、糸魚川市はまだこの大火災からの復興の最中でした。
「糸魚川と一緒に何かできることはないか」僕のその想いを良く知る両沢監督が提案してくださったのです。すぐさま糸魚川市に協力を依頼。糸魚川市も快く引き受けてくださいました。こうして、海あり山ありの自然美の中で撮影ができる事になりました。
コロナ禍にも関わらず、キャストスタッフを心快く受けいれて頂き、糸魚川の皆様にも心より感謝致します。
もう一つの撮影地東京では、各空手道場の皆様にもご出演ご協力をお願いしました。素晴らしいキャスト、スタッフの皆様にもお集まり頂きました。クラウドファンディングも多くの方々に多くのご支援をいただきました。沢山の方々のお力添えで映画製作に入る事ができました。映画を作れる事になったあの感動は、今でも鮮明に覚えています。
2021年7月、3週間の撮影期間を終え、2021年年末無事に完成することができました。
クランクアップの時の写真。
闘病シーンの撮影のためにスキンヘッドにした僕のために
監督も一緒にスキンヘッドにしてくださいました。
僕の想いはこの映画の中に詰まっています。
ドナーさんが居たから僕は生きています。
ドナーさんが居たから生きている人達が居ます。
この映画が沢山の人に届きますように。
映画館で是非観て欲しいのです。
全国各地に届けたい。
皆様、応援宜しくお願いします
樋口大悟
糸魚川での撮影も大詰め。
糸魚川駅前大通りを全面封鎖した時の撮影風景。
皆様のご支援お待ちしております
骨髄移植によって救われた命。
白血病経験者が映画を通じて伝えたい想い。
あなたは、白血病という病気をご存じでしょうか。
白血病は「血液のがん」といわれる病気で、造血細胞(血液を製造する工場とでもいうべき細胞)の異常から引き起こされるものです。著名人の方でもたくさんの方が白血病と診断されたことを告白し、中には亡くなった方も少なくありません。
白血病の治療の一つとして「骨髄移植」があります。
骨髄移植は造血細胞を他の人の健康なものと置き換える治療方法です。「移植」ですので、その造血細胞を提供する「骨髄ドナー」の協力が必要となります。
私、樋口大悟は25歳の時、突如「急性骨髄性白血病」と診断されました。俳優を目指し始めた矢先の出来事でした。抗がん剤によって1度は治癒したかと思われましたが、1年後に再発。その後の長い闘病生活のなかで死を覚悟する時期も経験しましたが、幸いにも30歳の時にドナーが見つかり、骨髄移植により命を救われた一人です。
一つでも多くの命が助かってほしい。
白血病を経験した本人が企画・原案・主演する映画を通じて。
その後、僕は骨髄移植で命を救われた経験を活かし、骨髄バンク支援活動や命の大切さを伝える講演などを行ってきました。その中で出会った協力者の方々、そしてクラウドファンディングによる支援者の方々のおかげで、1つの映画を制作することができました。それが「骨髄移植と命」をテーマにした映画「みんな生きている 〜二つ目の誕生日〜」です。
白血病の当事者である僕、樋口大悟が主演として演じることで、今現在苦しんでいる方に「こんなに元気になれるんだ」と希望を持って欲しい。これが、この映画作りの根底にある想いです。
そしてもう1つ、この映画を通じて伝えたい想いは「誰かの善意で助かる命がある」ということです。僕のように骨髄移植だけが唯一の生きる方法だと告知された人でも、骨髄液をくれるドナーさんが居なければ、生きる希望を持って移植手術に臨むことすら叶いません。
しかし、骨髄バンクに興味があっても、バンク登録に踏み切れない人もいます。身体的な理由や登録条件などにより登録できない人もいます。登録してドナーに選ばれても、何かしらの理由で辞退する人もいます。家族や周囲の人からの反対で骨髄液の提供を諦める人もいます。
この映画を通じて骨髄移植の現実を知るとともに、ドナー登録をしなくても、骨髄液の提供をしなくても、何かしらの方法で、活動の一部に参加する事が出来る。それを知ってもらえる、それを広めてもらえる。その一端になれたらと思っています。
2019年4月下北沢ロフト・骨髄バンクって何?
ライブ&トークショウVol.1
僕のドナーになってくれた人にも届けたい。
名前も顔も知らないドナーさんへ届けたい「ありがとう」の気持ち。
僕は再発後、骨髄移植の手術まで3年余かかりました。
身内の中に骨髄の型が合う者が居なかった僕は、骨髄バンク登録者に頼るしかありませんでした。登録者の中から骨髄の型が合う人を見つけ、その登録者に同意を得て、手術を行うまで、3年を要したのです。その3年間は死への恐怖に怯える毎日でした。
しかし、幸いにも僕の白血病は進行の遅いタイプでした。さらに幸いなことに、その3年の間に骨髄バンク登録者が22万人から32万人に増えていました。登録者が増えた背景には、本田美奈子さんの『白血病に負けない。負けさせない。』広報活動がありました。僕のドナーさんもその内のお一人かもしれません。
3年を過ごしたある日、突如病状が悪化。「移植するなら今しかない」というタイミングでドナーが見つかった時は、ただただホッとしました。しかし当時の骨髄移植手術はまだ、半数弱の人が命を落とす治療法でした。もしかしたら自分が2ヶ月後に消えているかもしれない...。恐怖と希望が行ったり来たりしていました。
意外と知られていませんが、骨髄移植を受けた人は、ドナーとなった人がどこの誰なのかを知ることはできません。それはドナー側も同様で、自身の骨髄が誰に渡ったのか、誰の命を救ったのか、知ることはないのです。
移植日まで、ひたすらに顔も名前も知らないドナーさんのイメージをし続けていました。関西在住の同年代の女性とだけ聞かされていたので、西の空ばかり見ながら。そうすれば、きっとドナーさんの骨髄液も僕の中に根付いてくれ、血を作ってくれるはずだと。
優しい人なんだろうなぁ、家族や子供はいるのでしょうか、今どこで何をしているのでしょうか。風邪はひいていませんか。そんなことを当時も、今も、思っています。このプロジェクトを見ているかはわかりませんが「あなた」が居なければ、僕の命は消えていました。心からの「ありがとう」を映画を通じて伝えたい、そう願っています。
友人と家族に支えられた闘病生活。前を向いて笑って過ごそうと思いながらも心の底から笑えたことはなかった気がします。
白血病をテーマにした映画やドラマは多く存在します。しかし、骨髄を提供してくれるドナーさんに焦点を当てた話はありません。顔も名前もわからない見知らぬ誰かに、僕は助けられた。この事実もこの映画で伝えたいと思っています。
「骨髄移植」という治療方法は無名の人たちの善意に支えられている。この映画を作ると決めた時、このテーマの持つ意味、そして骨髄バンクの活動に共感してくれる人達と共に作りたい。そう思いました。
まだ終わっていない、僕の闘病。
一つでも多くの命や希望につながって欲しい。
白血病と診断されてからいつの間にか10数年が経っていました。再発、骨髄移植をしてからもあっと言う間に過ぎたように感じます。
映画が完成した今思うこと。それは、この映画を作る事で改めて、より深く、この病気と骨髄移植と命に向き合う機会になったということです。この映画を作って、一つでも多くの命や希望に繋がるよう、ドナー経験者の方や沢山の方に観て貰うまでは、僕の闘病は終わっていないんだと気付きました。
20代半ばから30歳の間、移植まで散々悩んだ時期がありました。働き盛りの輝いている同年代とただ病室にいる自分。移植後も、1〜2年は再発率も高く、日常生活にも沢山の制限があります。移植サバイバーにとって、社会復帰もまた大変な一歩です。
幸いにも僕は骨髄移植のおかげで命が繋がり、3年くらい経つとかなり元気になりました。徐々に良くなる中で、患者会などに足を運んだり、イベントで話す機会が増えました。苦しんでいる方やそのご家族の話を聞く機会も増え、同時に亡くなる方も沢山みてきました。
月日を重ねる毎に、もっと沢山の人に骨髄移植、骨髄バンク、助かる命がある事を知って欲しいと思うようになりました。僕自身が移植経験者である。僕自身が俳優である。映画を作って沢山の方々にこの想いと現実を届けたいという気持ちが募っていく事になります。そしてドナーの方々にも感謝の想いを伝えたい。そう思うと、居ても立っても居られなくなりました。
中央:樋口大悟/右:両沢和幸監督
2020年夏、短編映画「10年目のロックスター」の撮影風景
両沢和幸監督との出会い。
映画制作に至るまでの経緯。
2011年、両沢監督にオーディションで出会いました。その時、オーディションには落ちてしまい仕事をご一緒する事はありませんでしたが、その後、僕が監督のオリジナルソングを好きになり、監督の歌を聴きにライブに通うようになりました。出逢って3年程経った2014年頃、監督に病気と骨髄移植の事を話すようになったのを覚えています。
「映画を作りたいと思っている」
この時、既に映画の構想は他のチームと動きはじめていたので、監督には脚本が出来たらアドバイスしてくださいとお願いしていました。
2017年、両沢監督の提案で『骨髄バンクって何?ライブ&トークショウ』を始めました。この活動の中で『僕のヒーロー』という曲が生まれました。僕が言葉にできないドナーさんへの想いを監督が作詞し、闘病中も支えてくれた心友でありアーティストでもある鈴木周哉が作曲、3人で歌う事になりました。この『僕のヒーロー』が、今回の映画の主題歌です。
そんな活動をする中、当初動いていたチームとの映画企画が流れてしまいました。それを聞いた両沢監督は「じゃぁ、俺がやろうか。」と一言。一緒にやる事になり、脚本を書き始めてくれました。2018年、この映画のスタート地点です。
多くの協力者のおかげで完成した映画。
監督・糸魚川の皆さん・支援者の皆さん・制作の皆さんにも伝えたい「ありがとう」。
最初は、僕と両沢監督の2人での二人三脚。
脚本を持って色々なところを周り、協力者を仰ぎました。資金集めをする為にクラウドファンディングを立ち上げたのも、この頃です。ドナー側と患者側の両面を描く為に、ドナー側のロケ地をどうするかという話になった時、両沢監督から「ドナー側の撮影地、糸魚川にしたら?」という提案が。新潟県糸魚川市…僕の故郷です。
糸魚川市大規模火災。
2016年12月22日昼前、糸魚川市で発生した火災は、翌日の夕方の鎮火まで約30時間続きました。焼損範囲は約4万平方メートル。幸いにも死者は出ませんでしたが、多くの住宅や会社、そして歴史的建造物や文化施設が消失してしまいました。2018年のこの頃も、糸魚川市はまだこの大火災からの復興の最中でした。
「糸魚川と一緒に何かできることはないか」僕のその想いを良く知る両沢監督が提案してくださったのです。すぐさま糸魚川市に協力を依頼。糸魚川市も快く引き受けてくださいました。こうして、海あり山ありの自然美の中で撮影ができる事になりました。
コロナ禍にも関わらず、キャストスタッフを心快く受けいれて頂き、糸魚川の皆様にも心より感謝致します。
もう一つの撮影地東京では、各空手道場の皆様にもご出演ご協力をお願いしました。素晴らしいキャスト、スタッフの皆様にもお集まり頂きました。クラウドファンディングも多くの方々に多くのご支援をいただきました。沢山の方々のお力添えで映画製作に入る事ができました。映画を作れる事になったあの感動は、今でも鮮明に覚えています。
2021年7月、3週間の撮影期間を終え、2021年年末無事に完成することができました。
クランクアップの時の写真。
闘病シーンの撮影のためにスキンヘッドにした僕のために
監督も一緒にスキンヘッドにしてくださいました。
糸魚川での撮影も大詰め。
糸魚川駅前大通りを全面封鎖した時の撮影風景。
僕の想いはこの映画の中に詰まっています。
ドナーさんが居たから僕は生きています。
ドナーさんが居たから生きている人達が居ます。
この映画が沢山の人に届きますように。
映画館で是非観て欲しいのです。
全国各地に届けたい。
皆様、応援宜しくお願いします
樋口大悟